歴史 | |
年代 | 出来事 |
784年 (延暦三年) |
諏訪神社が歓請されたと伝えられる。大伴狭手彦が任那、百済救援のため出征する際に玉島神社、平原の住吉神社とあわせて創建したともいわれるが、狭手彦が出征したのは537年(宣化天皇二年)。 |
室町時代 | 応仁の乱の頃、戦火で諏訪神社が焼失し、規模を縮小し再建されたらしい。 |
慶長年間 | 土地の儒学者、落合某が京都の祇園祭を見て、浜崎で祇園祭を始めさせたという説がある。 |
1753年 (宝暦三年) |
濱区の網本、中村屋久兵衛が浜崎祇園祭を始めたと伝えられる年。江戸時代中期になる。山笠発祥の一番有力な年代とされる。昔はパンフレット等に「380年」「240年」「180年」等々バラバラな表記もあった。 中村屋久兵衛が商用で京都に上ったとき京都の祇園社(現八坂神社)に参拝(祇園祭を見物したといわれることもあるが、日程的には困難)し、帰途で博多祇園山笠を見物。浜崎でも祇園祭を行うことを提案し、私費を投じて三台の山笠を奉納したことが起源といわれる。前年(1752年)にははしかが流行しているので、その関係もあるかもしれない。 当初は博多の飾りをそのまま借りてきて飾ることから始めたらしい。 当初の開催日はお盆の日で、「火を被った家の『長男だけは』山笠に出てはいけない」という説は、初盆にお客さんを迎えるためということかららしい。 |
1763年 (宝暦十三年) |
浜崎、唐津藩領から天領になり、日田群代の支配下となる。 浜崎の囃子は、竹紙を張る笛を使うことと、三味線が加わるという楽器構成が他の地区ではあまりみられない特徴だが、これは日田祇園の囃子と共通している。何らかの関係がある可能性は高そうだが、演奏する曲目や曲調は異なる。 |
江戸時代 | 囃子の成立 最初に、周辺の幾つかの村と共同で遠方に出かけ、囃子を収集したらしい。博多には山笠に伴う囃子がなく、浜崎での山笠行事の始まりといくらかずれる可能性もある。 浜崎の笛のように竹紙を張るものは「民笛」で、張らない「清笛」は幕末頃これにとってかわったらしいので、それ以前のことだろうという推測もできる。 珍しい楽器構成のことを考えると、天領になっていた間のことという可能性も高そうだが、元々九州の広い地域で珍しくないものであったが、他地区では廃れたがたまたま浜崎と日田は残ったということも有り得るので、そうではない可能性もある。 |
1792年 (寛政四年) |
諏訪神社本殿が建築される。これが後に移築され現在の祇園社本殿となっている。 |
1817年 (文化十四年) |
浜崎が天領から対馬藩領になる。 |
江戸時代 | 以下のような話が残っている。真偽は不明。 ある年、浜崎から関西に商用で行った船が、帰りが遅れて間に合わず、祇園祭の当日にはまだ広島の港に停泊していた。 そのため水夫が船の上で囃子をして宴会をしていたところ、たまたまそれが広島の殿様の耳に入って気に入られ、招かれて囃子を披露したところ喜ばれ、ご馳走を振舞われ、褒美までいただいた。 |
1863年 (文久三年) |
東組囃子用の鐘新調。 |
明治時代? | 浜崎山笠の様式の成立。この飾り方を考えたといわれる人物の年齢等から考えると、明治時代頃だと推測される。 浜崎の山笠の飾りは、屋形や滝、野面といった部品は博多の山笠と共通する部分が多い。しかし飾る前の地山(骨組みの山笠)の段階では大きく異なる構造をしている。 「槍出し」や「南瓜棚」を使った奥行きのある構造は浜崎で成立したもので、同じような構造を持った近隣の山笠は「浜崎系」という名前で分類されているらしい。 この奥行きを使った飾り方は、華道の遠景や近景といった考え方が取り入れているそうである。 |
明治時代 | 電線により山笠を低くしなければならないということになったが、ならば浜崎に電線は要らないという話になった。 しかし電線をひかないわけにもいかなかったので、山笠の期間中だけ電線を地中に埋め、それでも邪魔な所では電線除けの棒で上げるという方法で高いままの山笠を運行した。 |
1903年 (明治三十六年) |
4月中旬、東組台車新調。 |
1904年 ( 明治四十五年) |
諏訪神社本殿が建て替えられる。旧本殿は移築され祇園社となる。 |
1948年〜1949年 (昭和二十三年〜二十四年) |
物資や若衆人手の不足により中断。 |
昭和三十年頃 | 道路の舗装により電線の埋設ができなくなり、山笠を低くせざるをえなくなった。この間、運行路も変更となった。大きい山笠を製作する技術が失われないように、三区合同での置き山笠も作られた。 しかし、山笠が軽くなり走り山になって形態が変わり、これでは浜崎の山笠ではないということで問題になり、地元の資金負担で電柱を高くし、再び高い山笠を曳くように戻される。 |
1974年 (昭和四十四年) |
5月下旬、東組台車新調。 |
1982年 (昭和五十七年) |
雨が続き山笠製作が間に合わなかったため、開催日が延期された。後に開催期日が変更されるきっかけになったとも言われる。 |
1982年 (昭和五十七年) |
東組鐘新調。 |
1984年 (昭和五十九年) |
濱組台車新調。 |
1985年 (昭和六十年) |
開催期間が、7月14、15日から7月第4土日に変更される。休日を利用し参加しやすくするためと、梅雨と準備時期が重なっていて不都合だったことが理由。 |
昭和末〜 平成頃 |
三区が四本柱を換えて山笠の高さを統一する際、電柱を上に継ぎ足して山笠が少し高くなった。 浜崎の山笠の高さが13メートルと表記されていることもあるが、これはこの頃より以前のことで、現在は15メートルとなっている。 なお、一番山笠が高い頃は18メートルあったともいわれるが、御幣を高々と掲げていたため飾りの部分については現在とさほど変わらないともいわれる。 また、この頃から諏訪神社の通りの道が拡幅され、運行の面白みが減ったとも言われる。一方、東組は道が広がったおかげで地元に帰った後大まぎりができるようになり、楽しみが増えた。 |
1987年 (昭和六十二年) 〜 1990年 (平成二年) |
飾りの部分に、小さい燈籠を付けるようになった。これは電気の無い頃の山笠の様式に戻したもの。 |
1995年 (平成七年) |
台風接近により、二日目の運行中止。山笠は二日目の朝解体されたが、結局台風は直撃しなかった。 |
2001年 (平成十三年) |
北九州博覧祭2001で「九州・祭りの響演」に参加する祭の一つとして、三区の合同山笠で北九州市に遠征。250周年を前にしてのPRとして企画された。 見世物ではないとか、浜崎の外に山笠を出したくない、そんなことのために仕事を休めないなど反対意見も多かった。会社などには県知事から参加者への配慮を求める文書を出してもらったり、作業従事者には通常出ることのない日当が支給されたりもした。 |
2002年 (平成十四年) |
5月10日に浜玉町の重要無形民俗文化財に指定される。 |
2002年 (平成十四年) |
1753年を起源としての、250年祭。 濱組の山笠がひきやま公園前から運行することになり、運行形態が変わった。また、式典が行われるようになる。 この頃から、警察が許可を出さないということで夜間の運行時間が短くなる。 また、この年子供山笠が初めて運行される。 また、記念としてビデオが作成され、素材を流用した番組(小さな旅)がNHKで全国放送される。 ビデオは、これを見ても浜崎祇園のことは何もわからないだろう、という内容で不評。 また番組の内容は、町の紹介の時間が多く、山笠の様子が映る時間がほとんどなかったため不評。全国放送で浜崎祇園山笠の様子が流れたのはこれが最初らしい。 |
2002年 (平成十四年)、 2003年 (平成十五年)、 2004年 (平成十六年) |
濱組、東組、西組の台車が順に新調される。各台車の老朽化も製作の理由だが、年々山笠の台車を作ることが可能なほどの木材が減り製作費用が上がる一方、合併後唐津市からの補助が見込み難くなるため、合併前に作成年が集中することになった。 今回の台車が老朽化する頃には、木材が金銭的に調達不可能になっている可能性や、それだけの大きさの木材が存在していない可能性すらある。小さめの木材を組み合わせる設計や、木材以外の素材の使用も考えておかなければならないとも言われるが、それ以前に後継者不足を心配する声もある。 |
2015年 (平成二十七年) |
台風接近により、二日目の運行中止。山笠は二日目の朝から昼に解体された。 |
2018年 (平成三十年) |
「ダイドードリンコ日本の祭り」の取材があり、珍しく全国にテレビ放送される機会を得た。 |
2018年 (平成三十年) |
肥前佐賀幕末維新博覧会のため佐賀市に遠征。 |
2019年 (令和元年) |
台風のため一日目の運行が中止。強風で飾りの各所が破損したほか、夜中に東組の山笠が数メートル動いていた。二日目は三区とも午前中に修復を行い、予定通り開催できた。 |
2020年 (令和二年) 2021年 (令和三年) |
新型コロナウイルス感染予防のため、浜崎祇園祭は神事のみとなった。山笠が作られなかったのは1949年以来となる。 |
2022年 (令和四年) |
新型コロナウイルス感染予防のため、飲食等に制限をかけながらの開催。 |
2023年 (令和五年) |
浜崎祇園祭の270年を記念して餅まきが行われた。1753年を起源とすると271年目になる。 また、新型コロナウイルス感染予防の行動制限を解除して開催された。 |